妊鍼

目次
  1. 妊孕力を高める奇経治療🌟
  2. 妊孕力を高めるお腹のツボ🌟
  3. 妊孕力を高める足のツボ🌟
  4. 妊孕力を高める背中のツボ🌟
  5. 証と予後🌟
  6. 男性不妊に対する精子の数を増やし活動率を向上させる治療法🌟
  7. 岡本一抱に学ぶ東洋医学における発生学🌟🌟🌟
妊孕力を高める奇経治療🌟
  • 右照海-左列缺+右太衝-右通里に主穴に5壮、従穴に3壮知熱灸。

  • 原疾患がある場合
  1. 子宮筋腫 照海(患側)-列缺(健側)+太衝(患側)-通里(患側)or公孫(患側)-内関(患側)。
  2. 卵巣嚢腫 照海(患側)-列缺(健側)+太衝(患側)-通里(患側)or陥谷(患側)-合谷(患側)
※奇経の鑑別はテスターを貼って下腹部の反応が緩む方を取る。

  • セルフケア 自宅でドライヤー灸&金銀粒貼付。
照海
列缺
太衝
通里
公孫
内関
陥谷
合谷

妊孕力を高めるお腹のツボ🌟
  • 中条流4点と中極に知熱灸3壮。
  • 無月経、無排卵があれば石門に上向きに皮内鍼を貼付。※毎回張り替える。
  • セルフケア 中条流と中極にドライヤー灸各3壮。
中条流4点の取り方
①患者の口角~口角の長さを布メジャーで測る。
②その長さの半分の長さを1辺とする正三角形を紙とサシとコンパスとハサミを使って作る。
③正三角形の頂点を患者の臍の下のへりに当て底辺の両角に印を付ける。これが1、2点。
④次に最初に測った長辺を患者の臍の下のへりから垂らして仮点をつける。
⑤その仮点に正三角形の頂点を当て底辺の両角に印を付ける。これが3、4点。
中極、石門。
妊孕力を高める足のツボ🌟
  • 蠡溝、三陰交、中封、至陰に知熱灸。左右を比べて圧痛の強い側に5壮、反対側に3壮、左右差がなければ3壮ずつ。
  • セルフケア 自宅でドライヤー灸。
妊孕力を高める背中のツボ🌟
  • 腎兪、大腸兪に知熱灸。左右を比べて圧痛の強い側に5壮、反対側に3壮、左右差がなければ3壮ずつ。
  • 志室の下方の反応点。左右を比べて圧痛の強い側だけに知熱灸3壮。
  • セルフケア 自宅でドライヤー灸。背中なのでご主人にやってもらう。
証と予後
体質が肝虚になると妊娠します。
だから酸っぱいものがほしくなります。

腎虚から治療することがほとんどです。
だいたい1年~1年半で肝虚に変わります。

肺虚からスタートする場合はさらに年月を要します。

脾虚からスタートする場合はさらにさらに年月を要します。

心虚からスタートする場合は3~5年を要します。

肺虚以降の患者さんは安請け合いしてはいけません。

自分の腕と相談して、患者さんにきちんと説明して納得の上で引き受けるか否かを判断してください。

肝虚体質からどれだけ離れているかで予後が変わります。
離れれば離れるだけ妊孕力が乏しいと考えてください。
妊孕力が乏しいと生殖補助医療にトライしても着床しにくいです。
妊孕力が充足して始めて着床します。

逆にすでに肝虚からスタートする場合はわりかし早いことが多いです。
男性不妊に対する精子の数を増やし活動率を向上させる治療法🌟
  • 右照海-左列缺+右太衝-右通里。
  • 中条流4点+中極。
  • 三陰交、中封、至陰。
  • 腎兪、大腸兪。
  • 志室 圧痛の強い側に取る。
  • 勃起不全があれば、第11胸椎~第3腰椎督脉上と仙椎の督脉上の圧痛全てに知熱灸3壮ずつ。
  • セルフケア
  1. 上記のツボにドライヤー灸。奇経にはドライヤー灸&金銀粒貼付。
  2. お風呂で決して痛くないように睾丸を揉む。
  • 証 肺虚からスタートして腎虚に変わるか腎虚からスタートして肺虚に変わることが多い。
岡本一抱に学ぶ東洋医学における発生学🌟🌟🌟
中世の名医、岡本一抱は医学三蔵弁解(伴尚志 現代語約)で次のように述べています。
  • そもそも万物はさまざまに変化するとは言っても、その出所は天地の造化の一気に過ぎません。造化とは何のことを言うのでしょうか?陽気が降り陰精が昇るという陰陽昇降の一気を造化とします。ですから人の心陽は降り腎陰は昇るわけです。その心腎陰陽昇降の交わる一気は、中焦胃の腑にあり、これを名付けて胃の気とし、後天の元気とします。宇宙にはたくさんの万物がありますけれども、この気の交わりがなければ生育することはできません。人身もまたこの胃の気によらなければ精神血気を養い生を保つことはできないものです。
  • 天地の開闢(かいびゃく)以来、人々が連綿と命脉を絶つことなく来ている理由は男女の道によるものです。その精が至るということ気が交感するということは、心腎両臓によるところのものです。また後天の水穀を受けてその精神を養う大本は胃の気にあります。であれば、諸々の臓腑血気筋骨といった全身は心腎胃の三蔵から生ずるものです。まことに医家のもっとも要とすべきところであり、人命の根源であるということがよく理解できるでしょう。
  • そもそも医を学ぼうとするのであれば、先天の五臓の生じる本および自身の胎がどこから来たものなのかということをよく理解しておかなければなりません。
下焦蔵精
  • 万物においてその形が生じる始めは、天一の真水が凝集することによります。ですから受胎が生じる始めも、父の精が凝集することによります。腎は下焦に位置し脊の十四椎の両傍に付いてその形はささげのようで、天一の真水の精を蔵畜しています。ですから諸臓の中にあって、腎は生胎の源、人身の根本とするわけです。
  • 右腎命門
相火は龍雷によって波頭が変じた火です。虚空に生じて水湿によって盛んになるものです。天にこの相火がなければ、物を生じることはできません。人にもまたこの相火がなければ生命を保つことはできません。

この火は常に両腎の間に蔵(かく)れて、水源を養い、生気の根となっています。
これを腎間の動気と呼びまた命門の火と呼んでいます。
難経八難に生気の原、五臓六腑の本、十二経脉の根、呼吸の門、三焦の原、守邪の神と名付けられているのもまた、両腎の間の水中の相火のことを言っています。

これを下焦の元気と言い、下原と言い、臍下丹田気海の元気と言います。
腎は精を蔵して水火陰陽の根となるわけです。
その命門の気は男女とも同じ場所にあり、両腎間に含蔵されます。
人の胚胎が生育する道もまたここにあります。
誠に腎は人生の大義が属(あずか)る場所です。
上古より以来、人仁が連綿と続いて絶えていない理由は、ひとえにこの下焦蔵精によるものです。

  • 金生水
腎は骨際から出て骨際に会集します。地中を流れる水の源は深山にあります。水が始めて発する場所、その流れる場所はことごとく岩窟や金石の際から出ていることと同じです。たとえば紙を水に浸してその紙の中から水を出そうとするときは、水に浸した紙を手で堅く縮め絞ることによって、紙の中に含まれている水液を紙の間から流れ出させます。また器の中に水を入れて紙をその中に丸め堅めて入れると、器の中の水液がすべて堅めた紙の中に集まります。このように、水が地中に充満しているとしても、土石の堅固な場所でないと、出ることができず流れることもできず集まって留まることもまたできないものなのです。

同じように腎水も骨の澱む場所から出て、また骨の澱むところに集まります。脊の十四椎は、上下身体の大関要節であり、これより大いなる骨際はありません。ですから腎の水蔵はこの大関節の堅固な骨際に属(つらなり)、父母交接の時にもまた、水精がここから流れて母の子宮に集まり凝ります。その凝る場所の水精はそのまま、その子の腎精となってまた十四椎の大関節に係属していきます。実に腎は骨際の堅固なところから出て、また骨際の堅固なところに集まります。水は金石の堅固なところから出て、また金石の堅固なところに集まるという理と合致します。

  • 腎精蔵
父母が交接し父の一滴の精液母の子宮に凝って胎ができます。その父の精は直接その子の腎精となるものです。
《経脉篇》に、『人の生のはじめはまず精を成します』と述べられています。
であれば、腎が蔵するところの精液は、先天から出て身体に先立つ真陰であるということになります。

けれども先天から稟けるところの精液だけで、後天の谷気の精がそこに加わることがなければ、これが全身に充満し、終わるまで保たれることはできません。
ですから先天の精は後天の精によって養われているということになるわけです。

《上古天真論》に『腎は水を主ります。五臓六腑の精を受けてこれを蔵します。ですから五臓が盛んであればすなわちよく瀉すことができるわけです(射精)。』と述べられています。
このように腎臓の真精は、先天から稟けて後天によって養われていることは明らかなのです。

諸臓諸腑の後天の精液が盛んなときには、先天の精である腎陰を養うことができるので、精が下り瀉す(射精して子供を作る)ことができるわけです。
けれども水穀の精気が中焦から出て直接腎に及ぶわけではありません。
まず諸経津液血脉臓腑を潤した後に再び化して腎水を生じるものです。

  • 溺出下竅
精と小便はともに水気です。
水の性は順下して低いところに流れます。
ですから精と小便とはともに小腹に流れて前陰に出るわけです。

  • 精路
男子の陰茎というものは、後陰より前は一茎で、後は分かれて二股なっていて、脊の十四椎に通じて両腎に連なります。
その泄精の時には、十四椎の腎の位から出て、会陰の分に流れて陰茎に溢れ泄れます。
女子には陰茎はありませんけれども、その泄精が陰戸に溢れる道路においてはことなることはありません。

  • 男女泄精厚薄
男子の泄精は厚くて少なく、女子の泄精は薄くて多く溢れます。
また一会の間に女子の泄精は二三度におよぶことがありますが、男子の泄精はただ一回なのはどうしてでしょうか?

男は陽が勝ち陰液が少ないものです。
少ないので凝って厚くなります。
また女子は経水が下って気が泄れます。
ですから下焦の陰液が凝ることが少なく、その泄精も薄くなるわけです。

  • 房後陰痿
男子の泄精の後、陰茎が柔弱になるのはどうしてでしょうか?

これは陰陽互根の道です。
陰精が一度泄れると、中に根ざしている陽気が脱けます。
そのため柔弱になるのです。

陰虚火旺のものの多くは陽事が強く挙がるものです。
このことからも茎が強いということは陽によってなるものです。
けれども陽火が甚だ盛んなものは、反って茎痿することがあるのは、相火がその宗筋を緩弱ならしめるためです。

  • 父精生胎
人身が胚胎するということは、一滴の精液が子宮に凝って生るものです。
その胎は、男の精によるものであって、女の精は胎となることはできません。
男女が交接している間は、女子の感気が専らであって、子宮の門戸が開発された時に男の前陰が深く至って子宮の中に直接射すれば、精気がよく子宮に納められて胎を生じます。

女の精が一度精室を出て陰戸に湧溢しているわけですから、どうして再び自分の子宮に帰り入ることがあるでしょうか。
もし再び自己の子宮に帰り入ることがあったとしても、その精気は怯弱で胎をなす勢いはありえません。

《易》に『男女の精をまぐあわせる』とあるのは、男女の感気を指して言っているのであって、陰精の意味ではありません。
人身が胚胎する元が男精が原因であるという理由は、乾元が資て(贈って)始まり、坤元が資て(もらって)成るということです。
乾は父、坤は母です。
乾に始まると言い、坤に成ると言います。
これもまた父の精に原因があるとみるべきです。
たとえば草木のようなものは、必ず種があって地に施されます。
その始まるところは種にあり、その成るところは地に養われるところにあります。
その種とは父の精であり、その地とは女子の子宮です。

人身も万物の道も、天陽が施して地陰に成るものです。
ですから胚胎の始まりの資(たまわり)て生ずるところは、父の精だけです。
人の習俗として氏を継ぐものは、母の氏に従うのではなく、父家の氏を継ぐということも、またこのことによるわけです。

  • 十月留胎
男子の一滴の精液が女子の子宮の中に入ると、何がその精を十月の間止め養い、胎を成育させるのでしょうか。
男の精が子宮に入ると、女子の経血はすぐ止まって、その精胎を養います。
ですから経血が止まっている間は、交接しても妊娠することはありません。
胚胎を子宮に止めて養育するための供俸がないためです。

女子は十四歳で経水が起こり妊娠することができます。
妊娠すると経水が止まります。
もし妊娠中に経水が出る時は胎が敗けたためです。

  • 茎戸
男の精液は下り泄れ、女の精液は上り溢れます。
男の茎垂は下部に垂れ、女の乳房は上部に露われます。
血液が化して乳頭に上り溢れるのは、どうしてなのでしょうか。

そもそも男は陽体であって乾天(けんてん、《易》の乾為天のこと)に対応しています。
女は陰体であって坤地(こんち、《易》の坤為地のこと)に対応しています。
天陽は降り地陰は昇ります。
ですから男の茎垂は低い位置にあって下部に垂れ、泄精もまた下り注ぎます。
これは天気が下降する象です。
女の乳房は上部に露われて乳液も上に溢れ上がります。
これは地気が上昇する象です。
とはいっても男陽女陰の本質は失うことがないため、男の茎垂は外に現れ、女の陰戸子宮は内に蔵れます。
これは陽道は進み陰道は退くという意味であり、自然の理なわけです。

  • 経水
任脉は腹裏を流れて諸陰経を統べています。
督脉は脊裏をめぐって諸陽経を統べています。
衝脉は上下に衝通して諸経の海となっています。
この三脉はともに子宮胞中に起こり会陰に行きます。
ですから子宮は全身の諸経の血液がことごとく注ぐ場所であり、これがついには陰戸に下り泄れるわけです。
これが経水です。

任督衝の三脉は男女ともにあり、男は精室に起こり女は子宮に起こるだけの違いなのですから、男子にもまた経水があってもよいのに女子だけにこれがあるのはどうしてなのでしょうか。

男は天に対応し、女は地に対応しています。
天は無形の気で満ちて、地は有形の湿潤で溢れています。
ですから女子は血液で満ちあふれていて、経水にその余りが下るのです。
たとえば、河 海 流 水は、地に存在し、これが乾いて涸れることがないということと同じです。
あるいは千万人の中には一生経水がないものもいます。
これは陰気が閉塞した女の「変」であり、医書にいうところの暗経です。
閉塞している陰体は資て生ずるところがなく、経水もありませんが子供もできません。
常道ではありません。

  • 子宮
《難経》に、『腎に二つあるのは両方ともが腎なのではありませ。左を腎とし右を命門とします。命門は男子は精を蔵し、女子は胞を懸けます。』と述べられています。
胞とは子宮のことです。
書かれていることは、精液はただ左腎に蔵され、子宮は右腎の内に懸けられているように見えますけれども、越人の意図はそうではありません。
男は精気をもっぱらとし、女子は子宮をもっぱらとします。
それぞれ重んずるところのものを述べているだけのことです。
子宮は右腎のみに懸けられていることがあるでしょうか、精気がどうして左腎にだけ蔵されているわけがあるでしょうか。
精気は常に両腎に蔵され、子宮は両腎の間に懸けられています。

子宮はもともと小さなものです。
胚胎が蔵されると経水が止まり、胎を養って徐々に象形を生成していきます。
その象形が生長するに従って子宮もまた膨張するので、胎を蔵することができます。
出産し終わると、子宮もまた縮小してもとのように収まります。

  • 胞衣
胞衣は俗にエナと呼ばれています。
これはどこから生じたものなのでしょうか。

男子の一滴の精液が、子宮に始めて凝る時は、女子の経水がこのために止まって、その精胎を包養し、男女の象形を生じます。
胞衣や男の精がその子宮に止まっている
間、胎息が始まるに従って、徐々に上に先に一片の浮皮を生じます。
これを胞衣と呼んでいるわけです。
たとえば膏を温めていくと、表面に浮皮が張ってくるようなものです。
人の形ができる前です。
ですから児の頭にこれを戴くわけです。

また児の母の腹には、胞衣から臍に連なる一筋のものがあります。
これを臍帯と言います。
母の水穀血液の濁気は胞衣で防ぎ、その清精の気は臍帯を伝わって胎を養っているわけです。

  • 胎中留血非瘀血
懐胎している十月の間の留血は、胎を養うための供えであって無用の畜血ではありません。
産後は養うべき胎がなくなっていますので、留血もまた無用になります。
無用のものとなっていますから瘀血です。
妊婦の経水が閉じている十ヶ月の間は瘀血ではありません。
産後の留血はすべて瘀血とします。

産前の漏血は恐れるべきものであり、産後に漏血が尽きなければ大病となるというのも、この理由によります。

  • 経水非気滞瘀血
婦人の毎月の経水は、全身を順流している有余の血液が子宮に流れ集まって下るものです。

男は天に象る気道です。
女は地に象る潤道です。
たとえば地中に常に河 海 水 流の溢湧しているように、婦人の血液は有余して経水に泄れ下ります。
地における河 海 水 流が溢湧することが、どうして濁悪の水であると言えるでしょう。

  • 子門
子宮の下口はいつも閉塞しています。
経水が通じる時であっても、その下口は閉じていて開いてはいないものです。
ただ身体の動作に従って子宮の中の血液が徐々にその下口の閉塞している間隙から泄れ溜まって、経水として下ります。

経水が下っている間は交会があったとしても妊娠しない理由は、月経が流れ下る勢いが強いために男精を受け止めることができないためです。

子宮の下口はいつも閉塞していますけれども、交会の間や感気が甚だしいときは、子宮の下口も感気に乗じて自然に開きます。
この時、もし男精がその子宮に射れば、開いた子門もまたもとのように閉塞して、月経が止まり精を封じ包んで養い、胎を育てていきます。
八九月から十一二月まで、その出産に遅速がある理由は、草木の果実が時期やその質の剛柔によって、早く熟して落ちるものがあり、また遅く熟して落ちるものがあるのと同じことです。
父の精や母の血の虚実や、天気自然の運行によって、出産に遅速があるだけのことです。

けれども十月保たずに出産する場合は吉兆ではありません。
母の血の養育を充分に受けてその子が健やかであれば、出産もまた安全なものです。

  • 胎向母
母胎内にある児は、母の背に向かって相対しているものです。

乳汁は水穀の液です。
もし母の腹で乳液を吸うようなことがあるならば、その子は母の腹の中で二便をすることになります。
もし二便をしているなら、母の水道にその子の大便も混じって出てこなければなりません。
けれども古今これまで母の水道に子の大便が漏れているということを聞いたことはありません。
子が産まれ出た後は、すぐに黒便をして糞のようなものを出します。
俗にいうカニババです。
これは母の腹の中で飲食したものが出ているわけではなく、胎育されている十月の間に蓄った、臓腑の中の穢濁を下し出したものであって、飲食をしてできた大便ではありません。

であれば、胎孕中はどうやってその児は養育されているのでしょうか。
ただ母の血気水穀の精によって、臍帯を通じて養われているのです。
たとえば瓜が蔓(つる)で養われているようなものです。
根と瓜との間は遠く離れていますけれども、細い蔓を伝わって養われています。
その精力が通いさえすれば養われるわけです。
植物は無情ですから、その果実を養う際に蔓で隔てられていても育てることができます。
人は万物の霊であり有情の最たるものですけれども、胎中の十月の間は無情で草木と異なることはありません。
ですから臍帯で精力を外から通じさせてこれを養っているわけです。
産後は九竅が自然に開いて有情の人となるため、乳哺飲食して内からこれを養います。
内から養うと、二便が必ず出るものです。
児が胎孕中に乳を吸わないことはこのことからも明らかです。


  • 腹婦採豆


母の腹の中で飲乳してはいないわけですけれども、妊娠して背を伸ばして高いところにあるものを取ろうとすると、腹の皮が引っ張って急迫し、胎息を動揺させてしまうことがあります。

身を屈めて腹皮が緩むようにしていると、胎は安静を保つことができるわけです。

ですから、妊婦が豆を採って身を屈めるようにするとよいということは、養生家の法にかなっているということになるわけです。


  • 雙胎

雙胎(双子)は、一晩に二回の会合があったり、一会の間に男が精を二回泄らしたりします。

すると、子宮はまた開いて男の精を二回納れることになります。

交会の間子宮が開き、男の精がその子宮に入るとすぐに子門が閉塞して再び開くことがないというのが婦人の常道です。

ですが、子宮がまた開いて男精もまた再び納まりますから、二度の精を蔵し留めることとなり、雙胎ができるわけです。


けれども妊娠する子宮は一つです。

雙胎あるいは三胎を孕んだとしても、子宮に二つはありません。

一つの子宮であるいは二胎あるいは三胎を蔵するわけです。

これらはすべて常道ではないものです。


雙胎を産んだ場合にその兄弟を決める際、先に産まれたものを弟とし、後に産まれたものを兄と世俗ではします。

納得のできることです。

始めて会した精胎は子宮の中の奥に胞され、後に入った精胎は子宮の前に胞されます。

ですからその前のものが先に産まれて奥のものは次に産まれるわけです。

このため、第一産を弟とし、第二産を兄とするのはもことに理のあることなのです。


  • 産十月

婦人の妊娠期間が十ヶ月なのはどうしてでしょうか。

九は黄鐘で数の極みです。

ですから九が終わって十月で産むわけです。

自然の理です。


  • 乳汁

出産後は乳汁が通じます。

乳汁が出ている間は、経水が必ず止まって下らないこともまた自然の理です。

乳汁が出ている間に経水が下るものがためにありますけれども、このようなものは「変」に属し常道ではありません。


上に通じる乳汁も下に泄れる経水も、ともに血液が化したものであって、中焦における水穀の精微の気から生じているものです。

経水が赤色で乳液が白色なのは、赤い皿の水は赤く白粉の水は白いようなもので、その注ぐ部位に従って色が異なるわけです。

中焦における水穀の精液から発しているわけですけれども、経絡に注ぐものは化して営となり赤色であり、上焦の肺分に注ぐものは、金の気に化せられて自然に白色になるわけです。


乳汁が出ている間は経水が止まって下らないのは、下部に達するべき精液が上部に溢れ出ているためです。

これは自然の理であり、人身が行うことのできることではありません。


また、すでに出産している夫人の乳汁が必ず出るのは、天がこれを生じてこれを養うという自然の道です。

天が万物を生じる際には、必ずこれを養うものを供えます。

小児が産まれてその歯がまだ生えずその臓腑がまだ充実していないうちは、大人が食べる穀味でこれを直接養うことはできません。

そのため、母の血液を化して乳汁にし、泄らしてこれを吸わせて養うわけです。

天が雨露を降して万物を潤養するということと同じことです。

すべては天地自然の仁に出ているものなのです。


  • 男女受胎

男女の胎を生じることについては(産み分け)古くからさまざまな議論があって、統一された結論は出ていません。

陰陽平にして物というものは生じます。

陰陽の偏勝がありながら胎息を生じることはありえません。

ただ父母の交会の間、陰陽感動の気にしたがってそうなるのです。

あらかじめその理を測り知ることはできません。

たとえば草木は五葉に生じあるいは三葉に生じあるいは赤い花白い花の異類を生じますが、どうしてかはわからないということと同じことです。

ともに生物の自然ということになります。


男女交会の時に、父の一滴の真精が妙凝して胎を受ける際、自然に天地陰陽の賦するところがあって男女の胎を始めて分けます。

男女の胎を生じるのは天地自然の妙道にあり、人がなすところではないわけですから、その理もまた人のよく測り知ることのできないところのものです。

胎がそのように生じる理由を測り知ることができるなれば、人々が思い通りに子を生じることもできるはずです。

男女の受胎は自然に起こることであって、人智の及ぶところではないというのはすなわち、反ってその理を深く理解しているものです。

男女の胎を生ずるのは、父母から直接生じているとは思ってはいけません。

天地陰陽の気を父母に借りてこれを生じるのです。

その天地陰陽の中において、陰を主として受けるものは女胎となり、陽を主として受けるものは男胎となるわけです。


  • 気化形化

婦人が妊娠して第一月から男女の形質が具わるわけではありません。

妊娠して一月は白露のようで、二月は桃花のようで、三月で始めてその兆しが徐々に生じてきます。

鶏卵のように始めから形があるわけではありません。

月日を積んで徐々にその形を生じます。


始めに生ずる胎形は、五臓においては腎です。

形においては頭鼻です。

ここから次第に諸蔵全身がしっかり具わります。

このため、ものの長を頭と呼び、ものの始めを鼻祖と呼んでいるわけです。


ある人が、太極が分かれて天地が位置し、五行が備わって万物が始めて生じるには、必ずその種があってそうなるのでしょうか違うのでしょうか?と聞きました。


答えて言いました。

種があります。

気が種となるものがあり、形が種となるものがあります。

天地が開き、始めてものが生じるときには、すべて気を種とします。

これを気化と名付けています。

万物がすでに生じた後、物から物を生じるときは、その形気を交え合わせてこれを種とします。

毎年決まった季節に生じるもののように、物から物を生じるものを、形化と名付けています。

たとえば、箱の中に自然に小虫が生まれでるものは、気を種として生じているので気化です。

現代において考えると、松や柏を生じる土地があり、竹類をよく生じる土地ががありますが、これらはみなその土に気化の種があるためです。

そもそも草木虫魚に至るまで、形化の種なくして自然に生ずる物はことごとく気を種として自然に化生したもので、これは気化です。

すでに一男一女が化生されていれば、これが互いに形気を交合し、人から人を生じていますから形化です。

箱の中において、自然に小虫が始めて生じた後、その虫から虫を生じていくつにもなるものは形化です。

開闢の始め、人身や万物が始めて生じたものは気化であって、人が人を、物が物を生々して尽きないものは、形化となるわけです。


  • 子宮有鑄

万物の形質というものは、春温を得て生じ、冬寒を得て尽きるものです。

その冬季に失って春季に生じる形質は、毎年すべて同じで少しも違いがありません。


思うに、冬季その形が消失してその種もなくなっているならば、来春に生じるものの形もまた異なっているのではないでしょうか。

けれども毎春同じ形に生じて変わらないのはどうしてなのでしょうか。


答えて言いました。

その種は消尽するとしても、これを生じるところの鑄(いがた)はまだそこにあります。

ですからその形が同じで差がないわけです。

たとえば。金を溶かして一つの鑄に入れると、何回鑄出(ちゅうしゅつ)してもその形は同じで差がないようなものです。

子宮は鑄です。

父精は溶かす金汁です。

鑄出された形は子です。

一滴の父精が母の子宮に入り、鑄出する子宮の鑄に限界があるために、諸婦人が生じるところの人の胎はすべて同じで、その形に差がないわけです。


  • 悪阻

妊婦が患う悪阻の理由は何でしょうか。


妊娠している婦人は、その子宮の中にいつもは存在していない男精を留めています。

そして血海の精血は浮き溢れて、内の気はいつもと異なりざわついています。

このため悪阻を患うわけです。


血海の精血が浮いて逆すると吐逆します。

精胎の気が緩んでいるときはそれを収斂させようとして酸を好みます。

精胎の気が急なときは、それを散じようとして辛を好みます。

けれども日を積み月を重ねていくと、子宮の精血が定まり、悪阻もまたなくなります。

治療する必要は必ずしもありません。


  • 男女変声

心気は降り腎気は上り、心腎両臓の気が上下に張って陰陽が平となります。

ですから、男女まだ会さずに精をまったく泄らしていないうちは、上下の両臓が張り合っていますので、その声音を出すと清く高く響きます。

けれども始めて交会して精を泄らすと下焦が疎通して、上下に張り合っていたものに偏勝がおこります。

そのため音声が濁悪となるわけです。

陰虚虚労の人はその声が嗄れて出にくくなるという理もまた同じことで、腎水が耗虚して、心腎上下の張り合いが失われるためです。

鼓の上下の皮がよく張り合っていればその響きは清く高いですが、もし一方の皮が破れているものを拍つと、その皮の破れから泄れて音の響きも清らかではなくなるようなものです。


だいたい以上の深い論理に達した上で蔵象を考えるならば、人身において貴ぶべきものは、下焦蔵精にあることがわかります。

ここが治療の枢であり、医学の要、素難の奥旨です。

三焦心包有名無形論

~《難経》は、句句すべてが理であり字字すべてが法です。

中でもこの二十五難は医学にもっとも切要なものであり、その義も新奥です。~


  • 三焦は無形

三焦無形の理については、まず《八難》の『諸々の十二経脉はすべて、生気の原に係ります。いわゆる生気の原とは、十二経根本のことで、腎間の動気のことを言います。これは五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門であり、三焦の原です。』と述べられているところと、《六十六難》の『臍下腎間の動気は、人の生命であり、十二経の根本です。ですからこれを名付けて原と呼んでいるわけです。三焦は原気の別使であり、三気を通行させて五臓六腑を経歴することを主ります。』と述べられていることから推し測るべきでしょう。


腎間の動気というのは両腎の間に根ざしているひとつの陽気です。

これは私も人も資(もと)として生じた先天の元気です。

天地の間では、冬至における来復の一陽が地下に根ざし、これがすべての元気となって四季や万物を造化していきます。

草木のようなものもその元気は根にあり、これは枝葉や果実に化していきます。

人身における元気も、父から受けて臍下腎間に存在し、全身の生化の根本となります。

これを名付けて原気と呼んでいるわけです。

三焦はその原気の別使です。


別使とは何なのでしょうか。

臍下腎間の陽気はそこにいるままでは生気の化をなすことができません。

常に発して上下全身に往来運行して働かなければならないのです。

その働くところを別使と呼んでいます。

これが上下に往来通行して働くからこそ、血気が五十回もめぐり、一万三千百息の呼吸も出入し、水穀を飲食し、消化もし、大小便の通利もあるわけです。

いやしくもこの原気の往来通行の働きに大過不及 遅速渋滞があるときは、諸病が必ずここから生じることとなります。

臍下腎間の陽気が上下全身に運行しているこの気の働きを三焦と呼んでいるわけです。


ということは、心包も三焦も同じようなものということになるわけですけれども、陽気が出てくる位置が異なります。

膻中心の宮から出て臓腑全身に通じている陽気の徳用を心主とし、臍下腎間から出て上下全身を通行する陽気の働きを三焦と呼んでいるのです。

たとえば、行灯(あんどん)の内を三段に張り分けて、その下の一重に火をともすと、その光が三重の行灯全体に満ちていきます。

その本は一重の所に立っている一つの灯火から出た光です。

その灯火を臍下腎間の動気とします。

三重の方の行灯全体に満ちている光を三焦とします。

このことから三焦が無形であって腎間の動気の別使であるということを工夫してください。


三焦は下部の陽気が別れて働くものだということを理解していれば、肺は相傅の官で治節が出るということで、肺が全身の気化の総てを司り、肺から全身それぞれに気を配り布くということも明らかとなります。

どうしてかという、全身の陽気の化はもともと腎間にあるわけですけれども、その気が燻蒸して上るところは上の肺です。

香炉の煙がもともとは炉の中の火から出ていても、立ち上って上の蓋を伝ってそこから香気が部屋中に満ちていくようなものです。

腎間の陽気は炉の中の火です。

その煙は三焦の気です。

その蓋は肺です。

ですから肺は気を統べ、ここからすべての気化を全身に配り布くものだということが明白になるわけです。

三焦を形があるものだと見るとこのような理においても昧(くら)くなってしまいます。


天に形があるのかというと、形はないものです。

ただ一つの気が治水万物を囲んでいます。

天文学者などが天は鶏卵のようだというのは誤りです。

天地の間は一つの気が満ちて囲んでいるもので、これが天地の三焦です。

天地に充満している三焦の気と人身に充満している三焦の気とが一つになっているため、この小さな耳目だけで広大な見聞きすることができるわけです。


《三十一難》に『三焦は水穀の道路で、気の終始するところです』と述べられていますがこれも、全身に通行して充満している気を三焦としているためです。

三焦の気が向(みはり)に出て飲食を通じさせ、これを消化し、これを排泄させているようなものです。


《八難》では先天の三焦のことを述べ、《三十一難》では後天の三焦のことを述べ、《六十六難》では原気の別使は三焦の本根であることを明らかにしています。

今現在において、水穀によって生じた気は後天の元気であり、腎間の動気の別使である三焦の気は先天の元気です。

先天と後天とが一つになって全身を養っているわけです。

ですから《刺節真邪篇》に、『真気とは、天から受けた気と穀気とが併さって身体を充たしているものです』と述べられているわけです。


三焦は無形の元気です。

他の臓腑のように形があってひとつづつ囲いがあるようなものではありません。

その気の用(機能)は広大で、上下全身毫毛の先までもこれが及んでいないところはありません。

ですから他にこれと同輩のものはありません。

ただ三焦だけです。

ですから《霊枢・本輸篇》では、三焦を弧の腑とし、《三十八難》では外の府としているのです。

他にこれと同類のものがないためです。

それなのに三焦を有形であると見てしまうと、医道に大きな相違が生ずることとなります。


三焦は元気であるとだけ心得ておけば、元気には形がないため無形の理についても自然に理解できます。

ただ人身において要となるものは三焦です。

ですから《六十六難》では『原というのは三焦の尊号です』と述べられているのです。

三焦が正常であれば全身も正常で平安です。

三焦が和していなければ諸邪がこれを犯し諸病はこれによって生じます。

ですからこれを名付けて守邪の神と呼んでいるわけです。


医道は三焦を眼目とします。

病因を察し治療を行うに際してすべて、三焦ひとつを相手にしていることです。

越人は深く医道の奥義に達して心主 三焦が無形であるということを明らかにしました。

後学を導き医源を指南する恵みの実に大きなこと、これを過ぎるものがないほどです。

けれども後人はこれを反って有形として医の教えを昏(くら)くしてしまいました。

後学を惑わさせる失(とが)はこれより大きなものはありません。

有形の説に従う学者は必ず人を殺すこととなるでしょう。

慎み恐れなければなりません。


諸経絡はすべて三焦に通じるものです。

このため《八難》に『諸十二経脉はすべて生気の原と係ります。』と述べられており、《十六難》では『臍下腎間の動気は、十二経脉の根本です』と述べられているわけです。


三焦は諸臓 諸腑 諸経 諸絡を通行して全身のどこにもこの気を受けないところはありません。

上焦の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気はすべて三焦の気にしたがって運行しているのです。

ですから《三十一難》に『三焦は気の終始するところ』と述べられているのです。


腎間動気論

《八難》には『寸口の脉が平であるのに死ぬ者がいるのはどうしてなのでしょうか。諸十二経脉は全て生気の原に係ります、いわゆる生気の原とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。これが五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門三焦の原です。一には守邪の神とも名付けられています。ですから、気は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、生気が独り内で絶するからです。』と述べられています。

《一難》で寸口を取って死生吉凶を決断すると述べられているわけですけれども、寸口の脉は平でことに死変の徴候が現れていないのに死ぬ人がいるのはどういう道理なのでしょうかと聞いているわけです。


『諸経脉は全て生気の原に係ります』


寸口の脉は手の太陰肺経の動です。

総じて肺経に限らず諸十二経脉はすべて生気の原に係りつながりがあります。

寸口の脉が平であるのに死ぬ者は、この生気の原が絶えたことがその理由です。


『いわゆる生気の源とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。』


この生気の源とは何のことを言うのかといううと、十二経の根本、腎間の動気のことを言います。


諸経脉は、上昇の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気が循環するところです。

この三気は三焦によってめぐります。

三焦は腎間の動気の別使です。

ですから諸十二経脉は腎間の動気を根本としています。

天地の間の四季の往来や万物の造化は何によって行われているのかというと、冬至に来復した一陽の気によってなされています。

この坎中の一陽は十二支で言うと子にあたります。人身の生化もまた、両腎の間の水中に含蔵されている一陽の陽気によってなされているものです。


そもそも私や人々が生じるのは、男女の両精が妙合したものなのですけれども、その種となっているものは父の一滴の精だけです。

ですから《霊枢・天年篇》に『母を基とし父を楯とします。』と述べられており、これを註解する者は稼穡(穀物の植え付けと採り入れ)にたとえて、『必ずその地を得て種を施します。地は母です。種は父です。』と述べています。

父の精だけから胞を生じるということは、この言葉からも明確に理解できます。


その父の精は単独では泄れません。

男女が交会して男がその心に感じたとき、膻中が動じて下焦に泄れます。

心陽の気が下焦に移り水中の陽気によって動じるわけです。

その動によって泄精するため、精の中には自らの心腎が貫通した陽気が含蔵されます。

これが妙合して胎を成す際、その神はその子の膻中に存し、その精は子の両腎精となり、含蔵された陽気の根がはその両腎の間に留まり続けて、私たちの生化をなします。

これが腎間の動気です。

実(まこと)に人身の精気のい源そのものではありませんか。

ですから上文ではこれを名付けて生気の原と言い、下文ではこれを五臓六腑の本、十二経脉の根、呼吸の門と述べているわけです。


いやしくもこの腎間の陽気がなければ、五臓六腑も生化することができず、宗気 営気 衛気が十二経脉を循環することができず、呼吸の一万三千五百息も出入することができません。

実に五臓六腑の水源 十二経脉の根元 呼吸の戸なわけです。


  • 腎間の動気

腎間の陽気は常の場合は、ただ水を温める程度のことで、これを探しても見つけることはできません。

これが発動することによって含寓されている陽気があったのだということがわかるのです。

三焦は腎間の原気の別使ですけれども、常の場合は、これを見ることはできません。

発動することによって腎間三焦の陽気があったのだということがわかるのです。

蛍の光が昼間は見えなくとも夜ははっきりと見えるようなようなものです。

また人の目の中は血液だけですけれども、その血液の循環が正常であれば白目の部分はすっきりと白く、一筋の赤みはありません。

もしその血液が少しでも渋滞すると、赤みが必ずあらわれてくるようなものです。

腎間三焦の陽気も、常の場合はわかりません。

動くことによってこれがわかります。

このため陽気とはいわずに動気と言っているわけです。


けれども後世、その動気を候うということを立てる者がありました。

ある者は、足の少陰腎経の内踝の後ろの跟骨の上の太谿穴の動脈でこれを候うとしました。

またある者は、尺脉でこれを候うとしました。

これらの諸説は全て間違いです。

腎間の動気は臍下丹田気海の地に含寓しているものであって、これを探してわかるような気ではありません。

ですから越人は結句で、『生気が独り内に絶します』と述べているのです。

この「内」という字に深い意味があります。

その外候が有り得ないということをこの『内で絶します』という一句を用いて、工夫してください。


  • 守邪の神

『一には守邪の神とも名付けられています』とは。


腎間の陽気が堅固であれば三焦も堅固で、どのような邪もこれを侵すことができません。

諸邪が病を起こすのは、腎間の陽気が堅固ではないためです。

ですからこれを名付けて「守邪の神」と呼んでいるのです。

《評熱病論》に『邪の湊るところは、その気が必ず虚します』と述べられています。

これも腎間三焦の気が行き届かないところには、必ず邪気が湊り侵すために述べられている言葉です。


  • 独り内で絶す

この「独」の字には実に深い意味があります。

生気が内に絶すると、その人はすぐに死ぬはずです。

どうして寸口が平で、まだ死なないのでしょうか。

生気がすでに独り内で絶しているとはいっても、外に穀気からの養いがまだ尽きていないため、しばらくの間は寸口を平に保っていますけれども遂には死絶します。

寸口の脉は後天の胃の気が化したものです。

腎間の動気は先天の生化の源です。

先天がすでに尽きていても後天がまだ尽きてはいないために、寸口が平でしばらくの間生きているわけです。

ですから越人はこの心を「独」「内」の二字に持たせているわけです。

学ぶ者はこの二字を深く工夫してください。


たとえば切り花は、生気が内に絶しているものです。

水に入れれば枯れないのは、寸口の脉が平ということです。

人身が死ぬときは、先天が尽きて後天がついに尽きる場合と、後天が尽きて先天が最後に尽きる場合があり同じではありません。

医者はこれを考えて、死期の早い遅いを測らなければなりません。


  • 腎間の動気は命門の火
右腎命門という言葉は越人が《難経》で始めて述べたものです。
けれども右腎が命門の火であるとは述べていません。
ただ二つある腎の、左を腎とし右を命門とするとだけ述べています。
後人が誤って左腎は水の精、右腎は命門の相火であると言ったのです。

腎間の動気は陽であり火です。
これが人身の生命の根蒂なので、命門の火とも呼ぶべきものです。
けれどもこの火が独り右腎にだけ含蔵されているとすべきではありません。
両腎の精の中に含蔵されていて、常に精を温め化しているのです。

もし腎気が乱れ動ずるときには、この含蔵され精を温めているだけの気が、変化して火炎となります。
たとえば焼酎が火となって燃えるようなものです。
燃えれば火ですけれどもそれが消えればもとの焼酎です。
人の腎精もまた変動するときは火ですけれども治ると本の精を温めるだけの気となります。
どうして左腎が冷水で右腎が陽火であるということがあるでしょうか。
後世、右腎を命門の火であると言ったのは大変な間違いです。

腎は北方の水蔵ではありますけれども、冷水ではありません。
水中に一陽を含蔵しているため、その水精は自然に温暖です。
この温暖を生気の原とし、腎間の動気とし、また命門の火とも言うわけです。
その温暖が大過の場合は、陰虚火動の病となります。
もしその温暖が不足する場合は、下元虚寒の症を病み、桂附の剤でこれを主治することとなります。

あるいは《難経》に腎間の動気とあり、「間」という字にとらわれて両腎の間に挟まれている動気とするのは誤りです。
経に間と述べられているのは中間ということではありません。
左腎にも偏らず右腎にも偏らず、両腎両精の中に自然に含寓されている陽気であることを理解させるために、腎間という字を用いているのです。
中間に挟まれているわけではありません。
五行論
  • 五臓の成立

天地万物はすべて始めは水から生じます。

ですから人身においても、一滴の精が凝ってこの形体を生じます。

精は水です。

水だけであれば陰だけなので形ができることはありません。

ですから精の中には必ず自然に一つの陽気が備わっています。

これがすなわち神です。

天一が水を生じ、地二が火を生じて、水中には早々に火が備わり、水火が離れることがないということが、天然の常理です。

ですから人の体の始めに精が凝るとき、その中には早くも神が備わっているわけです。

精と神という水火が具わっているので、ここから次第に形体が生じ完成されていきます。


けれどもこの精神だけでこれを養う道筋がなければ、精神もついには絶してしまいます。

ですから精の中から血が分かれ神の中から気が分かれ、血気が運行されることによって精神を養う道筋となっているわけです。

たとえば、草木に根があれば必ず枝葉が生じるようなものです。


精神は根であり血気は枝葉です。


この血気が上下に運行している間に、交気の一気が具わります。

天気が下降し地気が上升して、その升降の間の交わる一気があり、これが万物を化育させる元となります。

これと同じように、血気が運行されて升降し交わる一気が、後天の元気となって人の生をなします。


ということは、人身は、精 神 血 気 交気(営)の五気によって生ずるものです。

この五気はそれぞれ蔵されるところがなければなりません。

そこでその五気が蔵されるところを立てて、五臓とします。精は腎に蔵されて、神は心に蔵されて、血は肝に蔵されて、気は肺に蔵されて、交気は脾に蔵されます。

これによって五臓のことは大概は済みました。


  • 五臓の位置

先人は身体の腹中を上下の二段に分けて、精は水ですから下段に置き、神は火ですから上段に置き、血は精の中から分かれた枝であり、気は神の中から分かれた枝ですから、血気は精神の上に置きました。

本は下にあり末は上にあるのが必然の理ですから、血は精の上に置き、気は神の上に置きます。

さて、交気は中の分です。

中は上下の内では下の分ですから、上下二段のうちの下の段の中央の境に置きます。

  • 五臓の陰陽

これに陰陽を立ててみると、精は水陰で下段の陰位にありますから、陰中の陰で太陰です。

神は火陽で上段の陽位にありますから、陽中の陽で太陽です。


血は精の中から分かれたものですけれども、完全な陰ではありません。

どうしてかというと、血は赤色で運行して息むことがないので、陰でありながら陽の用(機能)があるためです。

ですからこれを陰中の陽とし、少陽とします。


気もまた神の中から分かれたものですけれども、完全な陽ではありません。

どうしてかというと、人の息を用いて熱いものを吹くとすぐに冷ますことができますし、息を漆器に吹き付けるとその息のあたるところに露を生じますので、陽でありながら陰の用があるためです。

ですからこれを陽中の陰とし、少陰とします。


交気は中の陰分です。

中は上下二段の内の陰分に属しますから、交気は陰とします。その交気が後天の元気となって、精神血気の四つのものを営(めぐ)るため。至陰とします。

「至」は貴んでこう呼んでいるものです。


このことを《霊枢・九鍼十二原篇》では『心は陽中の太陽です。肺は陽中の少陰です。肝は陰中の少陽です。脾は陰中の至陰です。腎は陰中の太陰です。』と述べられているわけです。


  • 五臓を五行に配す

腎は陰精でありもともと水に属します。

心は神陽でありもともと火に属します。

肺は気を蔵して陽中の少陰ですから金に属します。

肝は血を蔵して陰中の少陽ですから木に属します。

脾は交気を蔵して中央にあり、至陰ですから土に属します。


  • 精神血気営は五臓の根元

往古の聖人は、五臓と陰陽五行について論じられましたが、すべてこの理から推測されているものです。

後人はこれを理解できず、五行を五臓の本としていますが、誤りです。

その原は精神血気営です。

精神血気営があって五臓が生じます。

たとえば鳥がいるので巣ができるようなものです。


五臓五行の属性はもっとも末のことです。

ですから治療を行う場合に五臓五行に拘ると少なからず人を損なうこととなります。

ただこの精神血気営を人身における五臓の根元として、病を察し治療を施すならば、医療において少なからず神妙の効果を上げることができるでしょう。


このように考えていくと、肺は収降の金臓あり上焦に位置して華蓋となっていることも、何ら不思議ではありません。


  • 精神血気体用論

一切のものには必ず体用二つがあります。

体は本であり、用は体から出た外での働きです。

たとえば燈火と光のようなものです。

燈火は体であり光が万方に充ちるのは用です。


精があると、その精が全身に及ぶところの用があり、これを血と呼んでいます。

この血が全身に布き満ちて身体の液となります。


神があると、その神が全身に及ぶところの用があり、これを気と呼んでいます。

この気が全身に布き満ちて身体の温となります。


このようにして気血という用が、身体を養う道筋となって精神を増し続けるわけです。


この気血という用が精神という体を養い、精神という体が気血という用を養い、体用が一致して人身を生化しているいわけです。


たとえば、木の枝葉についた雨露が根を養い、根がその枝葉を養って、根葉一致して生化するようなものです。

実に人身は精神血気営の五者以外にはないものです。

この五者が具足することを、人の胎の成就とします。

であれば、医学の切要とはただこの五者だけにあるわけです。

深く熟考し会得してください。


※伴尚志先生現代誤訳《医学三蔵弁解》《医学切要指南》より一部を抜粋しておりますが、大変に良著ですので、ぜひ書籍をお買い求めいただき深く学ばれてください。

鍼灸師の鍼灸師による鍼灸師のためのOWND ONE

鍼灸にはあらゆる流派や様式が在ります。 この多様性が日本鍼灸の優秀性のひとつだと感じています。 各流派に優劣は在りません。 それぞれに素晴らしい学術があり、互いに切磋琢磨する間柄です。 流派は違えど、患者を病苦から救うという同じ使命を持った鍼灸師に違いはありません。 元々1つです。 互いを認め高めあい、上工に成れるように、願いを込めてこの名前を付けました。 どうぞ、よろしくお願いします。